重家大使コラム『中学洞便り』 焼き物を見ながら
在大韓民国日本国大使館 特命全権大使
重家俊範

私は焼き物に若干の関心を持っている。実際に粘土をこねてきたわけではないし、また、専門的に勉強してきたわけでもない。いろいろの焼き物を見るのは
非常に楽しい。焼き物について、韓国は興味津々のところである。イチョン、ムンギョンなどいろいろの窯場を見た。
朝鮮の焼き物は九州など日本の焼き物に大きな影響を与えた。
昨秋、ソウル市内で田中佐次郎作陶展があった。先生は、唐津の陶芸家で、釜山近郊の蔚山市彦陽(ウルサンシ・オニャン)に「亀山窯(クサニョ)」を建て、韓国の土を
用いながら、高麗茶碗などの製作に取り組んでおられる。田中先生が韓国で篤志家の支援を得ながら、作陶活動をしておられることは、非常に意義深いことだ。
400年を超える両国の間の往来とこれからの日韓関係増進への先生の熱い想いを聞き感慨を覚えた。
私が最初に粘土に触ったのは、70年代の初め米国プリンストンで、小さな砂糖入れを作った時である。蓋のついた四角の壷である。
米国では、益子の名前が有名だった。濱田庄司やバーナード・リーチ(Bernard Leach)などの名前も米国ではじめて聞いたように思う。
その後、日本に帰ってから、米国で初めて聞いた「益子」に行った。重量感があり、生活を感じさせる。そう言えば、昔大先輩の家に夕食に呼ばれた時の
ことを思い出す。本当に穴倉のような狭い公務員宿舎の一部屋だったが、小さな食卓の上に並べられた食器はすばらしかった。みんな益子焼だった。
料理が盛られた益子の皿や茶碗の美しい光景が今でも脳裏に焼き付いている。
1982年の夏、英国勤務になった。英国はバーナード・リーチの母国である。セイント・アイブス(St. Ives)を目指して、コーンウオール(Cornwall)
に旅行した。バーナード・リーチと濱田庄司はそこで作陶に励んだ。1920年代である。セイント・アイブスはコーンウオール半島の殆ど地の端にある
小さな港町だった。
九州には多くの窯元がある。一番行きたいと長年思っていたのは、大分県の日田(ひた)の山間にある小鹿田(おんた)である。日田から細い田舎道をバスで
一時間余り山の中を上る。終点が小鹿田の里である。バスを降りると粘土を砕く水車の唐臼の音が聞こえる。唐津にも行った。城下町らしい重厚な焼き物だ。
そこから伊万里に足を伸ばした。江戸時代、伊万里の焼き物は伊万里港からインド洋、ケープタウン(今でもケープタウンには伊万里焼が残っている)を経て
欧州に行き、欧州文化を豊かにした。
ある冬、ワシントンからアリゾナに行った。そこではインディアンが独特の焼き物を作っている。プエブロ・インディアンなどの焼き物である。
素晴らしいものだ。サン・イルデフォンソ・プエブロ(San Ildefonso Pueblo)の小さな土器を買った。
南アフリカでそれほどの焼き物をやっている人がいるとは想像しなかった。インド洋に面したダーバンの郊外、山の中に大きなスタジオを作り、作陶活動して
いるのがアンドルー・ウオルフォード(Andrew Walford)さんである。益子で勉強した人だ。大きな甕やタイル・パネルなども手掛ける。
山の中腹に立てられた家屋兼スタジオは非常にうまく出来ていたし、作品は益子を思い出させる素晴らしものだった。作品が出来上がると、トラックに積んで
ヨハネスブルグに行って売る。大邸宅をギャラリーに仕立てて陳列、即売するのだ。南アの人と土、そして益子の合作だ。
先日、彼のウェブサイトを見たが、益々活発に作陶しておられるようだ。
南アには、ズールー(Zulu)という部族が作る壺の焼き物がある。丸い形が何とも言えない素朴な味がする。村の人々が麦酒をためるために使うのだ。
大きいものは抱きかかえる位の大きさがある。登り窯のように高温で焼くのではなく、土に穴を掘って火を炊きそれで焼くという。
だから低温で、焼き上がりもややもろい。焼きあがると豚の脂を塗りこむのだ。ズールー地方では田舎の路辺で売っている。
実際生活に使う大きな壺が欲しかったが、運搬が心配で、結局手に載るような小さいものを買った。そのズールー・ポットは今でも応接台に鎮座している。
焼き物は、世界どこでもある。人間の生活するところにはどこにでもあるのだ。どこの国でも素晴らしい焼き物がある。アジアにはアジアの焼き物があり、
アメリカや欧州にはまたそれぞれの焼き物がある。アフリカにはアフリカの焼き物がある。
そして、それぞれの土地の焼き物は、異なる文化に触れて、更に発展していく。なんと世界的で、素晴らしい世界だろう。(2010・1・19)
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