「城北洞の書斎から」
チャンギと将棋と駒の語る話
在大韓民国日本国大使館 特命全権大使
大島 正太郞
(9月中旬、大型台風13号が日本を襲い、強烈な暴風や、豪雨で10名にも上る犠牲者がでた。ところで、この台風のニュースで、前回のコラムを
思い出した方はいただろうか。実は自分には大きな驚きがあった。13号は、まさに、二度目の元寇である1281年の「弘安の役」の時の台風と同様に、
伊万里湾や博多湾近辺を襲ったのだった。今回の台風が、現代の技術で予報も、防災の準備も出来ていても大きな被害をもたらすほどの強烈な暴風だった
ところを見れば、当時の人知に限界のあった700余年前の台風によって、大艦隊が壊滅したのも理解できるというものだ。)
さて、先月秋晴れの素晴らしい天気の日、ドボンサン(道峰山)に行った。
マンウォルサ(望月寺)駅近くの入り口から入ったが、この辺りでは人は余りおらず、周囲に人影を見ることなくしばらく行くことも多かった。
稜線に至り、マンジャンボン(萬丈峰)に近くなるにつれ沢山の人と一緒になった。登山日和でソウル市内並みの交通渋滞みたいなときもあった。
数時間後に降り着いたのはドボンサン登山口。昼時も過ぎていた頃だったので、大勢の人々が道の左右に並ぶ食堂でマッコリを飲みながら食事をし、
ワイワイ上機嫌だった。韓国では登山と下山後の食事はワンセットのようだ。
さらに、道を駅の方に下ると、カラオケ店もあり、登山姿の中年のカップル2組が入ろうとしていた。
登山、食事、さらにカラオケというコースもあるらしい。さらに進むと、幾組ものおじさんたちが、縁台みたいなものに座ってチャンギに興じていた。
これは下山組みでは必ずしも無く、周囲から集まってきているようだった。
このようなおじさんたちが将棋の手合わせをする姿は、日本でも見られる光景だが、もちろんチャンギと将棋は似ているようで違っている。
西洋のチェスとも源流を同じくする、類似したゲームであるが、よく見るといろいろ違う。
特に目立つのが、駒の形の違いだ。
チャンギは、正八角形、緑と赤で敵味方(「楚」と「漢」)が区別されている。将棋は先がとがった形の五角形。並べる時の方向で敵味方を区別するが、
駒自身は等価の駒であれば敵味方の区別はない。(写真を見比べていただきたい。)
この理由は、将棋のルールに由来する。チャンギでは、チェス同様、相手の駒は、これを倒せば盤から取り除かれるだけだが、将棋では、
相手の駒を"獲る"と、手元に置いておいて、機会を見てその駒を自分のものとして指すことが出来る。自分の駒の数が無限にも近くになる訳だ。
駒の先を相手に向ければ自分の駒となるように、形が出来ている。
このようなルールは、日本の歴史上大名同士の覇権争いの戦さの中で捕虜になっても、自分を捕らえた「敵」の大名に忠誠を誓うことで生き延び、
その家来となり次の戦闘に出てゆくことが良くあったから、そのような戦さの実態が将棋のルールに反映したのだと言われている。
本当だろうか?実は、こちらに赴任してからの経験で、若干疑問を持ち始めている。
7月のコラムの新安の沈船の話をご記憶だろうか。
その時は触れなかったが、この沈船から引き上げられたものの中に、日本の将棋の駒があった。ソウルの国立中央博物館の新安沈船の展示をご覧になれば、
それが見られる。
元から青磁を日本に運ぶ船には、日本人の船乗りが乗っていたと思われている。積荷以外の日常的な品物からもそれが想像される。
彼らが暇つぶしに将棋をしていたらしい。
この沈船から見つかった日本の将棋の駒をみることは、やや衝撃的だ。
この沈船が航海に出たのは、1300年代前半、1320年代との説もある。日本の将棋が既にこの頃から現在と同じ形をしていたことが示されているから
驚いた。ちょっとした発見であった。
将棋はいつから、今のようなルールと、それに応じた駒の形になったのだろうか。
新安の沈船のころは、日本では鎌倉時代、まだ武士が戦さに明け暮れた戦国時代にはなっていない。それとも、鎌倉時代に先立つ平安時代に武士が出現した
頃から、武士が主人を取り替えることが良くあったのだろうか。
いずれにせよ、武士の用兵のあり方から、将棋でも獲った相手の駒が使えるという、現在のルールが出来たというのは、新安沈船から見つかった将棋の駒を
見ると説得力が少し減る感じだ。
ところで、新安の沈船が元から日本を目指したのは、1281年の弘安の役という二度目の元寇から数十年しか経っていない。
その間にかつて敵味方に分かれた両国はそれを克服してか、実りの多い貿易に従事している。
元の船の上に、日本人の船乗りが、鼻歌でも歌いながら将棋に興じている。
これは想像でしかないものの、何か微笑ましい。
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