日韓交流の足跡を訪ねて(対馬、下関)
在韓日本国大使館 公報文化院長
高橋妙子

本年8月、日本と韓国の間を2度も往復しました。一度目は高齢の両親を見舞い、二度目は九州の対馬から山口県の下関に日韓交流の足跡を訪ねるためでした。アフリカ等の遠隔地に勤務して滅多に日本に帰れない同僚のことを思うと、こんなに簡単に日本に帰ることにちょっと後ろめたさを感じなくもありません。しかし、これも韓国に勤務できる有り難さの一つです。特に私のように高齢の両親がいると、短時間で日本に帰れる環境にあることは大変有難いことです。一方、年間500万人が両国の間を往来する今日、私もたまにはそんな人々に混じって、日本の現場でも参加者の立場から日韓交流を体験してみたいとの思いもありました。そこで、日韓交流の歴史に関心のある日本人と韓国人からなるグループの下関ツアーに参加することとし、併せて、対馬も訪ねてみることにしたのです。
[対馬へ]
対馬は、古くから大陸と日本との文化、経済、軍事上に重要な役割を果たした島で、日本最古の銀山があったことでも知られています。室町時代から江戸時代にかけては特に、朝鮮王朝との交易の窓口として栄えました。当時、朝鮮王朝から日本の幕府に何度となく派遣された朝鮮通信使は、最初に対馬北部に接岸した後、海岸線にそって南下しながら、島の至るところで接遇を受け、その後、壱岐の島を経て下関に向かうのが普通でした。昨年、朝鮮通信使400周年に当たって、そんな歴史について学びながら、「私も朝鮮通信使が進んだ航路を行ってみたい。そして、『国境の島・対馬』から対岸の韓国、釜山の海岸線を見てみたい」という思いが強くなりました。釜山から対馬の北端まで、49.5キロというその距離感を自分の目で確認してみたいと思ったのです。そこで、同じく下関ツアーに参加予定であった韓国人のL女史を誘い、一緒に対馬に入ることにしました。
ソウルからKTXで釜山に出て、そこから対馬(厳原港)まで、約2時間半の待ちに待った船旅でした。L女史は、「船で外国に行くのは初めてです。」とちょっと緊張気味です。そう言われてみると、確かに私にとっても初めてでした。ところが、折しも九州北部から朝鮮半島にかけて前線が張り出して来ているとのことで、海は大荒れです。これで本当に対馬まで辿り着けるのでしょうか。因みに、その日は8月22日、北京オリンピックの野球準決勝(日韓戦)がある日で、勝負の行方も気になりました。すると、そこで初めて気づいたのですが、フェリーは対馬観光に出かける韓国人の家族や韓国人団体客でいっぱいで、声を挙げて日本チームを応援するには遠慮がありました。船内のテレビ中継が始まると、最初は日本チームの勝利を心の中で静かに念じていたのですが、ゲームが進むに連れ、船酔いに苦しんでいた友人のL女史が元気になったのに対して、私は少しでも早く対馬に着いて欲しいと願うばかりでした。
それにしても、釜山から対馬に渡る韓国人観光客の何と多かったことでしょう。通常国際空港では、入国管理手続きのために行列する場合、「外国人用」と「日本人用」(韓国の空港であれば「韓国人用」)の標識のどちらかの前で並ぶ訳ですが、厳原港では、全ての標識が「外国人用」となっていて、あたかも日本人が厳原港から入国してくることは想定していないようでした。実際、入国管理官も、私がソウル在住の日本人外交官だと知って驚いていましたし、滞在先のホテルでも、「対馬を観光で訪れる日本人は珍しい」と言われました。これに対して、釜山近郊に住む韓国人にとって、対馬は手軽に行ける外国で、毎年韓国人観光客の数も増えているとのことでした。中には風光明媚な場所に別荘を購入する韓国人も出てきているとのことでした。
さて、対馬の観光スポットですが、厳原町内だけでも、対馬藩主宗家の菩提寺である万松院、李王家・宗伯爵家御結婚奉祝記念碑、雨森芳洲(対馬藩にあって朝鮮通信使の接遇役を務めた儒学者)の墓等々、日韓関係に携わる者にとって十分に興味深い名所旧跡が多くありました。毎年8月最初の週末には、アリラン祭りが行われ、朝鮮通信史の行列も再現されるとのことでしたので、その時期に来ると面白いと言われました。しかし、車で島を縦断しながら感じたことは、四方を海に囲まれた緑豊かな島の風景が、訪れる者にとって何よりのご馳走だということでした。特に前日(出発日)からの雨も上がる中、車で北上して行くにつれて、もしかしたら対馬北端にある韓国展望台から釜山が見えるかもしれないとの期待感も高まりました。でもどうでしょう、実際に展望台に立って見ると、朝鮮半島にはまだガスがかかったままでした。それでも、「ほら、あの赤い色の高速船が向かっている方向、霧の中にうっすらと山並みが見えるでしょう」とガイドさんに言われると、なるほど見える気がしないでもありません。「カシャ!」、心の中でシャッターを押しました。
[下関へ]
下関は、朝鮮通信使一行の本州最初の上陸地として知られています。私達が訪れた週末も、「馬関まつり」(注1)が行われていて、朝鮮通信使の行列もありました。因みに、対馬から下関へは、ジェット・フェリーで博多港に出て2時間15分、博多駅から新幹線等を乗り継いで1時間余りのところにあります。
下関を訪ねるのは初めてでしたが、実際に行ってみて、この町が歴史の宝庫であることを発見しました。対岸の門司との間に挟まれた関門海峡の先には、『平家物語』の中に出てくる壇ノ浦がありますし、宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った巌流島も下関の沖合にあります。幕末から明治初期にかけて活躍した長州人達の足跡も多く残されています。そして「下関条約」として広く知られる、日清講和条約(1895年)が締結された会場が「日清講和記念館」として保存されており、当時の日本と大陸との関係を理解する上で大変貴重な資料が展示されています。
しかし、今回の私達のツアーのハイライトは、何と言っても「下関港国際ターミナル」を訪問して、そこで「関釜フェリー」の歴史を学ぶことでした。近代的な建物で、韓国の釜山のみならず中国の上海や青島との間に定期航路ができているとの説明に、今日の下関の国際海港としての位置づけを容易に理解することができました。同時に、同行して頂いた韓国人の歴史学の教授から、下関条約を契機に、日本が朝鮮半島から大陸に影響力を拡大して行くなかで「関釜フェリー」が果たした役割について伺ったのです。教授は、歴史的事実を淡々とお話され、ツアー参加者全員が-日本人も韓国人も一斉に襟を正してこれを聞きました。
下関港は、拡張整備を繰り返して来たとのことで、現在の埠頭は埋め立てによって相当沖合に迫り出しているとのことでした。そのためもあってか、近代的なターミナル・ビルからは「関釜フェリー」の歴史は見えて来ません。教授の話を聞きながら、正に、「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」(注2)と思ったものでした。
(注1)馬関は、下関の旧称。
(注2)『徒然草』の52段「仁和寺にある法師」から。 |