(講演原稿) 日韓関係の将来と歴史問題
1. 日韓関係の現状
アンニョンハセヨ(こんにちは)。
本日は、アサン研究所のセミナーにお招き頂いて光栄である。
冒頭、先ず、日韓関係の現状からお話ししたい。
日韓両国は、多くの困難を抱えた関係であるが、それでも、戦後、日韓双方の優れた勇気ある指導者によって、和解と友情のレールを敷いてきた。65年には、佐藤栄作総理が朴正煕大統領と困難な関係正常化を果たした。80年代に入ると中曽根康弘総理が、韓国の民主化を実現した全斗煥大統領と日韓関係の新しい節目を作った。
特筆したいのは、90年代の小渕恵三総理と金大中大統領である。両首脳の下で、日韓の文化開放が行われた。その結果、韓流ドラマが日本で大変大きなブームとなり、日韓の人的交流は物理的に爆発的増加を見た。昨年、韓国を訪れた日本人は300万人、日本を訪れた韓国人は270万人である。今年は、福島原発事故の影響で韓国人の訪日者数が減少したが、それでも2000年当時に比べれば、劇的な増加である。
また、今年の東北・北関東大震災では、15000人の犠牲者が出て、更に、5000人が行方不明のままである。この未曾有の惨事に対して、韓国が温かい手をさしのべてくれたことは、永久に忘れることが出来ない。例えば、一日、10億ウォンのお金が韓国赤十字に集まり、それが40日間、途切れることなく続いた。韓国は、米国及び台湾と並んで、最も暖かく手をさしのべてくれた国である。
このような日韓関係の現状を見るとき、その将来は明るいと信じる。
2. 共通の歴史を持つことは可能か
日韓関係を考えるとき、歴史問題を避けて通ることは出来ない。ただ、ここで少し立ち止まって考えたい。歴史問題とは何だろうか。歴史とは何だろうか。
私たちが歴史と言うとき、実は、近代国民国家としての歴史を無意識に指している。古代史や、中世史や、近世史ももちろんそこに含まれる。何故なら、多くの国が、近代国家としてアイデンティティを再編するときに、古代にまで遡って民族の歴史を編纂し直すからである。どこの国でも、その過程で、新しく生まれた近代国家に対して、同じく新しく生まれた近代的国民の忠誠心を強化するために、いかに自国が優れた国であるか、その栄光を書き連ねようとするのである。このような近代「国民」国家の歴史というものは、実は、19世紀位から流行し始めた歴史に過ぎない。
このような近代「国民」国家史観から離れて、本日、ビエレツキ元ポーランド首相や、ハンシュ元欧州議会議長が述べられたように、国民国家を超えるアイデンティティを準備し、それに見合った歴史を叙述することも可能である。この点について、アジアは、欧州から学ぶことが出来る。欧州諸国は、今、苦労して欧州統合を進めながら、「ヨーロッパ人」としての新しいアイデンティティを準備しつつある。ヨーロッパというのは、実は、よく分からない概念である。私が、80年代にベルギーのブラッセルに勤務していた頃は、南欧のスペインやポルトガルは未だ欧州連合に入っていなかったし、英国に至っては依然として「自分たちはヨーロッパ人なのか」と自問自答していた。また、ポーランドを始めとして、西欧と大きく異なる伝統を持つ多くの東欧諸国が、鉄のカーテンの向こう側にあった。
現在、南欧、東欧、北欧及び英国を含むヨーロッパの人々が、おしなべて欧州連合に帰属意識を持っている。こんなことは、かつて無かったことである。だからこそ、欧州では、今、「(汎)ヨーロッパ史」が、盛んに書かれている。これは、新しく創られ、書かれる歴史である。最早、欧州では、各民族の個別の歴史を栄光の歴史として叙述する作業は、歴史家の手を離れており、小説家に任されつつある。
欧州連合の実験から学ぶ点があるとすれば、それは、自国と欧州というような二重のアイデンティティを持つことが可能であると言うことである。それは、決して不可能ではない。普通の個人でも、家族の一員であり、会社の一員であり、地域社会の一員であり、国家の一員である。主権国家を超えた帰属意識をもつことは不可能ではない。それが実現すれば、主権の壁を越えて、共通の歴史を書くことへの渇望が生まれる。逆に、共に生きていくという意思がなければ、共通の歴史など必要ないであろう。アジアにおいても、日韓の間においても、同じアジアの未来を生きるために、歴史を分かち合うことは可能であると信じる。
アジアには、「共に生きていく」という共生の感覚がある。今春、未曾有宇の大地震に見舞われた日本の東北地方では、被災者の人々が「分かち合えば足りる。奪い合えば足りない」と言って、決していがみ合うことなく、助け合って暮らしている。これが、一つの共同体を作るために不可欠な共生の意思である。日本社会の団結力は強い。このような共生の意思が強固だからである。
共生の意思は、二つの意識に要約できる。一つは、「私たちは、一つである」ということであり、もう一つは、「私たちは、連帯している」ということである。実は、そのような考え方は、東アジア人が永く親しんできた大乗仏教の思想と通じるところがある。日韓両国は、共に、仏教の深く浸透した国である。法華経は、自他を区別せず、対立を排して「私たちは一つである」という一乗思想を教える。華厳経は、全ての事象は因縁の連鎖であることを教える。誰も、孤立して生きているわけではない、誰かを支え、誰かに支えられて生きていることを常に思い出させる。
このような伝統を持つアジアの国である日韓両国が、対立を克服して、共通の歴史をもてないはずはない。共通の歴史を持てば、日韓両国は、共に未来を分かち合うことが出来る。逆に、共通の未来を持とうという意思が、共通の歴史を書くことを可能にする。逆もまた、真である。
3.日本は韓国を必要としている
日本には、韓国と、共に生きていくという決意がある。何故なら、日本は韓国を必要としているからである。おそらく大国中の大国である米国もそうであろう。では、何故、日本が韓国を必要としているのか。何故、また、米国が韓国を必要としているのか。それは、韓国が著しく国力を増大させ、今や、アジアにおいてリーダーシップを取るべき国に成長しているからである。
韓国の友人と話していると、「韓国は小国である」と繰り返し述べる人がいる。そんなことはない。
例えば、先ず、経済力を見てみよう。韓国は、日本経済や中国経済の2割の大きさである。それは、米国経済や欧州連合の6~7パーセントの大きさだと言うことである。それが、国際社会の中で、小さいか、大きいかと言えば、非常に大きな経済である。BRICsと言われるインドや、ロシアや、ブラジルだって、日本の2割5分の大きさでしかない。実は、韓国は、これら大国の大きさと余り変わらないのである。だから、韓国は、G20中、第13位なのである。
韓国の人口は、日本の半分弱である。もし、例えば西日本が大阪共和国として独立したり、或いは、九州・四国が九州・四国連邦として独立したら、現在の韓国のような躍進する経済を実現できるかと考えてみると(会場・笑)、朝鮮戦争が残した灰燼の後から歯を食いしばって今日の繁栄を築き上げた韓国の人々の努力が、どれほど大変なものであったかが解る。
次に、軍事力を見てみよう。韓国軍は、米国の同盟軍であり、近代的な装備で身を固め、総軍は陸軍を中心に70万に近い。それは、日本の自衛隊の3倍弱の大きさである。お隣の大国である中国は、東の海洋に日米同盟、北はモンゴル高原を挟んでロシア、南にはヒマラヤ山脈を挟んでインドと向かい合い、かつ、広大なチベット及び新疆ウィグル地区の反政府運動と向かい合わねばならない。それでも、中国人民解放軍は、200万の規模でしかない。世界最大の領土を持つロシア軍は総軍100万の規模であるが、欧州・コーカサス正面に力を割かれており、極東のロシア軍は、僅か10万の規模である。国際社会の目から見れば、今日の韓国は、雅やかな(李氏)朝鮮王朝が近代化したと言うよりも、勇猛な高句麗が再登場したように見えるのではないか(会場・笑)。
経済力と軍事力に並んで、もう一つ、付け加えたいことは、韓国が民主主義の伝搬において取り得るリーダーシップについてである。それは、韓国の政治力に直結する。私たちが民主主義の本場だと思っている西欧諸国の中で、最後に民主化したのはスペインである。1975年にフランコ独裁が倒れ、スペインは民主政治に転じた。その僅か5年後に、地球の反対側にある韓国で光州蜂起が起きた。そして、その7年後の1987年に、韓国は民主主義に転じたのである。それは、ベルリンの壁の崩壊や東欧諸国の民主化よりも3年早い。そして、その韓国の後を追って、東欧諸国、ロシアが、そして、多くのASEAN諸国や台湾が、民主化を遂げたのである。今、中東諸国が、韓国の後を追い始めている。韓国は、西欧以外の地域で、冷戦後、怒濤のように始まった地球的規模での民主化の波の波頭に立っているのである。
このように考えてくれば、経済力においても、軍事力においても、政治力においても、韓国が大国としての地位を確立していることが解ると思う。そして、大国には責任が伴う。戦後、アジア太平洋地域の平和と繁栄を支えてきたのは、二大先進工業国家である日米両国であった。しかし、中国を初めとして東アジア諸国の多くが工業化し、国力を伸ばす中で、最早、日米両国のみでその責任を果たすことが出来ない。新しく登場した新興工業国家のリーダーシップが必要である。日本は、韓国を必要としている。だから、私は、日本が、「韓国と共に生きていくことを決意している」と申し上げているのである。
4.アジアの政治的伝統と民主主義思想
韓国の民主化の話をしたので、ここで、アジアの政治的伝統と民主主義思想について、更に話をしてみたい。
民主主義というと、欧米の輸入思想のように聞こえる。果たして、そうだろうか。アジアには,古くから「天を尊び、民(人間)を愛する」という思想がある。私たちは、そのような考え方に何の違和感もない。また、そのような考え方は、世界中のどこにでもあるであろう。天を畏れ、人を愛するというような基本的なものの考え方には、先進国も、途上国もない。都会も、田舎もないのである。
例えば、孟子は、2300年前に、天は民を慈しむ政治(仁政)を実現するために君主に天命を下すが、民を虐げる君主は天命を失い匹夫に戻るので、廃位され、或いは、誅殺されても仕方がないと述べる。また、孟子は、天命の有無は、民による君主の選択によって知ることが出来ると述べている。これは、ジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソーと言った欧州啓蒙思想に、非常に近い。
また、例えば、仏陀は、マガダ国王から、隣にあったヴァッジ族の共和国を滅ぼしたいと相談されて、ヴァッジ族はものごとを話し合いで決める民であると述べ、更に、法を尊び、僧侶を尊び、老人を尊び、女子を略奪しない民であり、倫理的に強靱な民であって、侵してはならないと述べる。この政治倫理に、民主主義の萌芽を感じないだろうか。
更に言えば、韓国においては、朝鮮王朝時代に、「言路」という制度があり、国王の前で、高級官僚に対し、下級官僚集団が容赦なく批判を加えることが制度上認められていた。それは、国王が貴族集団を分断統治する技術という面もあるであろうが、これもまた、民主主義の萌芽ではないだろうか。
実は、政治の本質には、洋の東西は関係がない。集団及びその構成員の生存と幸福を図るために、手段としての権力が生まれる。権力は集団構成員の一般意志に従う。その一般意志を「天」とか「法」とか呼ぶのである。天意に逆らう権力者は滅ぼされる。権力よりも尊いのは民であり、天の意思とは民の意思である。このような考え方は、実は、世界中のどこにでもある。
現在、アジアの私たちは、欧州啓蒙思想の言葉を借りて、「敬天」を「法の支配」と呼び、「愛民」を「人間の尊厳」と呼んでいるだけなのである。
しかし、欧州思想が明らかに優れている点が一点だけある。それは、天の声を民の声を通して聞くために、制度を作ったことである。それが近代民主主義制度である。彼らは、ギリシャ、ローマの文献を渉猟して、議会政治、三権分立、普通選挙と言った制度を生み出してきた。それは、決してギリシャ・ローマの物まねではなく、宗教改革とルネサンス以降、精神的に覚醒したゲルマン系北西部ヨーロッパ人の独創である。
この民主主義制度は、近代化、工業化が進む過程で、政府が肥大化し、同時に、市民社会が成熟してくると、統治のために不可欠の制度となる。近代産業国家においては、政府に対抗する力を持った大企業や、労働組合や、職能集団や、報道機関や、NGOが生まれてくる。これらの諸集団が抱える複雑で錯綜した利益が、猛烈なスピードでぶつかり合うのが現代社会である。民主主義制度無くして、現代社会を統治することは難しい。だから、民主主義は、20世紀後半以降、地球的規模で伝搬しているのである。
5. 植民地支配をどう考えるか
人間が全て平等であり、権力は民の意思である天の意志に従うとすれば、植民地支配をどう評価するべきかという問いに対する答えは、自明であろう。
近代的な植民地支配が始まったのは、19世紀の中盤からである。18世紀の末に英国で起きた産業革命が、ほんの一握りの国々に強大な力を与えた。工業化は、農業に比べて、天文学的と言って良いほどの国力を生む。今日では、ミドル・クラスの国々に過ぎない英仏独と言った北西欧州のゲルマン系の国々が、「近代欧州の世界覇権」という大事業を完遂したのは、工業化のお陰である。その後を、米国、ロシア、日本が追いかけたわけである。
圧倒的な国力を得たこれらの国々は、ケーキを切り分けるようにして地球を切り分けて行った。その過程で、アジアやアフリカの国々では、植民地に貶められた。彼らの人権も、主権も尊重されなかった。ただ、単に蹂躙されたのである。アジアでは、大英帝国の対露戦略の一環に組み込まれた日本とトルコと、そして、タイだけが植民地支配を免れた。インドでさえ主権を失い、中国でさえも孫文が嘆いたように半植民地の様相を呈したのである。
しかし、天の下に全ての人間が平等であるとするならば、工業化に先んじたという理由だけで、一握りの国々が、他の文明の人々を植民地にすることなど許されるはずがない。第二次世界大戦後、国際政治において現れた政治的津波は、植民地解放闘争の波である。どんなに強くても目覚めた民族を支配し続けることは出来ない。地球的規模で、植民地の崩壊が始まった。
1945年当時、世界には50の国しかなかったが、21世紀を目前にして、その数は200近くになった。アジア、アフリカの国々が次々と独立を果たしたからである。最後の植民地独立は、帝政ロシアに飲み込まれたコーカサスや中央アジアの国々であった。ソ連邦の崩壊は、帝政ロシアに組み込まれ、そのまま厳しいイデオロギーで固められたコーカサスや中央アジアの国々にも、強い民族の自覚をもたらしたのである。
そもそも工業化などというものは、一部の国々の特権ではない。科学的思考に慣れ、科学技術を導入し、機械化と分業に習熟し、後はまじめに働けば、誰でも工業化するのである。工業化を早く始めた国は、農業国家に比べて遙かに大きな国力を手にするが、リード・タイムは、せいぜい100年くらいである。それは、子供の成長に似ている。小学生と大学生の知力、体力は格段に違うが、35歳と45歳の大人になれば、大した違いはない。今や、グローバリゼーションの波の中で、多くの国々が新興工業国家として名乗りを上げつつある。その中には、かつても大帝国であった中国とインドが含まれる。今から振り返ってみれば、島国の英国が大陸国家であるインドを支配し、小国であるオランダが巨大なインドネシアを支配していたことの方が、不思議にさえ思われる。
また、同時に、19世紀の弱肉強食の世界から、21世紀の現代まで、人類社会は着実に倫理的に成熟してきたことを忘れてはならない。国際社会においても、「法の支配」が貫かれ、「人間の尊厳」が尊重されなくてはならないという考え方が、深く浸透してきたのである。
工業化の伝搬と国際社会の倫理的成熟の結果、いかなる大植民地帝国でも、150年以上、広大な植民地を支配し続けることは出来なかった。植民地から身を起こし啓蒙思想原理を国是とした米国は、第二次世界大戦終結後、早々とフィリピンの独立を認めたが、広大な植民地を手にした欧州の大植民地帝国の光芒も、早々に色あせたのである。大英帝国もそうである。フランス共和国もそうである。大日本帝国もそうである。ロシアも、また、そうである。
このような世界史の流れの中で、植民地支配がどのように位置づけられるかと言うことは自明であろう。それは、「悪」として位置づけられる。「文明」を持ち込んだと称し、電気を引き、ガスを引き、鉄道を敷き、道路を走らせ、ダムを造り、教育を普及させ、近代的な法制度を整備したとしても、その同意無くして、他民族とその領土を支配することは、許されないのである。
それは、民の誇りを傷つけ、その尊厳を奪うことに他ならないからである。民の意思が天の意思であるとするならば、それは、天意に背くことである。孟子は、天道に背くものは必ず滅びると述べている。日本を含めて、21世紀の世界で、植民地支配を「栄光の歴史」などと唱える者は、最早、一人もいないであろう。
6.アジアの未来
それでは、これからのアジアはどうなるのだろうか。共に生き、未来に向かって歴史を共に作っていこうとするならば、共通のヴィジョンが必要である。日韓両国は、共通のアジアのヴィジョンがもてるだろうか。
実は、既に、アジアの大きな戦略的枠組みは策定されている。日韓両国は、そこから大きく裨益しており、同時に、それを支える主要国となっているのである。日韓両国は、既に、アジアにおいては、現状維持派の指導的国家となっているのである。
先ず、経済的には、グローバルな市場経済・自由貿易体制が確立し、東アジアは、その中で、第三の極と言うべき地位を占めている。冷戦終了後、共産圏が消失し、文字通り地球的規模の市場経済が成立した。その中で、現在、最も躍進しているのが東アジア経済である。アジアは、日本の戦後復興を起点として、やがて四虎といわれた韓台星香の四強が登場し、ASEAN諸国がこれに続き、ついに中国とインドが工業化の波に加わった。東アジア経済は、いまや北米経済、欧州経済に匹敵する規模に成長しようとしている。新興工業国の旺盛な成長意欲は、世界経済を牽引している。それは、丁度、70年代の日独経済を思わせる。
早晩、東アジア経済は、世界最大の市場規模を誇るようになるであろう。東アジア経済を支えているのは、最大規模の中国と日本であり、その後ろにほぼ4分の1から5分の一の大きさで、韓国、ASEAN(全体)、豪州、インド、ロシアが並ぶ。台湾は、その半分くらいの大きさである。韓国は、既に、この東アジア経済を支え、牽引する大国となっている。
次に、安全保障の分野を見てみよう。戦後、アジアの安定は、西太平洋海浜部で大日本帝国の影響圏をほぼ引き継いだ米国が、日本、韓国、豪州を主たる同盟国とし、米軍を前方展開することにより、ロシアや中国と言ったユーラシア大陸側の巨大な軍事国家と戦略的な均衡を取ることによって維持されてきた。東西冷戦の厳しい地場の中で、中国だけが東に着いたり、西に着いたりして立ち位置を変えたが、基本的な構図は変わっていない。現在、中国の国力が、19世紀以来、初めてロシアの国力を抜き、中国がロシアに代わって、大陸側の第一勢力として登場しつつある。逆に、NATO拡大によって心傷ついたロシアが、「西側離れ」を起こし、アジアに関心の一部を移して、中国に寄り添うように立っている。
重要なことは、絶対的価値の対立が存在した冷戦中と異なり、既に、主要国である米国、中国、ロシアの間に、死活的利益の対立が存在しないことである。むしろ、先に述べたように、多くの国が、平和を享受しながら、市場経済と自由貿易体制の中で、着実に成長することを望んでいる。繁栄という共通利益の為に、安定もまた、共通の利益であることが正確に認識されている。
東アジアでは、北朝鮮の核問題、朝鮮半島統一問題、台湾問題、南シナ海問題、更に言えば、中国の急速な軍備増強と、安全保障上の問題には事欠かない。しかし、域内の多くの国が、平和と繁栄という戦略的利益を共有している限り、難しい問題はあっても、地域全体の安定を害することなく、協調外交を繰り広げ、地域の安定を確保していくことは可能であるはずである。地域協調の要の一つが、米韓同盟、日米同盟の当事国である日米韓三国の連携である。
最後に、価値観の問題である。18世紀の末以来、人間社会を動かしてきた最も大きな力は、自由と平等への希求である。植民地解放闘争は、その最たる者の一つである。それは、国内政治においては、独裁の否定をもたらす。20世紀後半に、広範に見られた独裁現象は、共産党一党独裁と、開発独裁である。いずれも近代化や工業化の初期に見られる集権体制である。後世の歴史家は、共産党一党独裁も、開発独裁の一種と分類するのではないだろうか。20世紀の終盤、その多くが、近代化及び工業化の進展と、市民社会の成熟に伴って、次々と民主化していった。
アジアにおいても、韓国を筆頭に、台湾、ASEAN諸国が民主化した。現在、ミャンマーに大きな変化の兆しが見られる。やがて民主化の波は、全てのアジアの国々を洗うであろう。その波は、世界史的な規模の津波であり、抗える国はないであろう。ただし、注意せねばならないことは、民主主義の選択は、その国の国民の主権的選択であると言うことである。決して、外から押しつけることは出来ない。外から出来ることは、説得だけである。説得のためには、民主主義こそが、国民を幸福に出来ることを証明してみせることが必要である。日本と韓国は、アジアにおける民主化の先駆けとして、アジアに民主主義が根付かせる責任を負っている。
このように考えれば、アジアの将来が見えてくる。
先ず、経済的に見れば、東アジアは、グローバルに広がった市場経済と自由貿易体制の中で、北米経済及び欧州経済と並ぶ支柱の一となり、のみならず、最も躍動する最大の経済圏として、世界経済を牽引することになるであろう。
次いで、安全保障面を見れば、東アジアは、米国の西太平洋同盟網と中国、ロシアが戦略的均衡を維持することによって安定し、北朝鮮や台湾など難しい問題を抱えつつも、主要行の協調外交によって、将来に亘り、平和と安定が持続的に維持されることになるであろう。
最後に、21世紀の東アジアを大きく包み込む政治思想は、近代欧州が紡ぎ出した基本的人権と民主主義の思想であろう。しかし、同時に、アジア人の多くが、その本質は、儒仏の教えに深く根ざした敬天や慈愛の思想と同じであるということに気づくことになるであろう。
このような将来のヴィジョンが共有できれば、私たちの間に、現在の欧州人のように、アジア人としての新しいアイデンティティが生まれることも可能であろう。それは、これから噴き出すアジア諸国の激しいナショナリズムが消化された後に、ゆっくりと現れるであろうアジアの地域主義を支える新しいアイデンティティとなる可能性がある。
カムサハムニダ(ご静聴ありがとうございました)。 |