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日韓EPA/FTAについて

在大韓民国日本国大使館
経済部長 尾池厚之

 

    大使館の経済部は、結構多忙なところである。大きな案件だけ見ても、貿易・投資関係から、日韓金融協力、漁業交渉、途上国援助に関する協力、観光促進、環境問題、科学技術や宇宙に関する案件、新型インフルエンザの発生状況のフォローなど、実に多様な仕事をしている。日本から来る人達の数も多い。経済部長はこうした様々な業務の総括をしているので、わりと忙しい日々を送っている。

    日頃から付き合っている人達は、韓国政府の外交通商部の通商関係者、様々な経済官庁の人達、経済団体や企業の幹部の方々、経済関連の研究所や大学の研究者達、韓国に進出している日本企業の関係者・・・結構多数の人達と付き合っている。昼食会や夕食会も多く、太らないようにすることが重要な課題になっている。実はこの点では、余り成功していない。

    日韓経済関係は比較的安定していて、様々な問題はあっても、年々深まってきているが、筆者には心にずっと引っかかっている懸案がある。日韓間の自由貿易協定(FTA)交渉のことである。日本では、FTAのことを経済連携協定(EPA)と称している。

    筆者は2007年2月に韓国に赴任してくる直前の3年間、外務本省のFTA交渉担当課長として、50名近くになる外務省のFTA交渉チームを総括していた。その任期中、もっとも残念であった出来事が日韓EPA/FTA交渉の中断であった。2003年末に始まった交渉は1年も経たないうちに座礁し、中断してしまった。この交渉はなぜ中断してしまったのか。少し堅い話になってしまうが、この交渉に長年関わってきた者として、日本政府の公式見解ではなく、あくまでも個人的な見方を披露したい。

    交渉中断の理由について、韓国側は、農林水産品に関する交渉姿勢の堅さや非関税障壁や協力案件に関する消極的姿勢を指摘して日本側を非難していた。日本側は、性急で硬直的な交渉姿勢や一部産業界の反発を理由に挙げて韓国側に原因があるとしていた。しかし、こうした交渉では、個別の分野で様々な立場の違いがあることはむしろ普通のことであり、交渉の中で解決していけばよいことである。筆者は、交渉中断のより重要な原因は、交渉目標や交渉スタイルについて、両国間で大きな違いがあったことだと考えている。正直なところ、こうした違いが両国交渉関係者の間の不信感につながった面もある。勿論政治的な要因もあるが、ここでは経済的な要因に集中したい。

    日韓EPA/FTA交渉に対する日本側の期待は大きなものがあった。しかし、それは、このFTAから具体的にどんな利益が得られるかということではなかった。東アジア地域における経済統合が進んでいくという世界化の流れの中で、この地域の先進国である日韓両国が地域の模範になるようなFTAを作ることが最大の目標だった。先進国同士で、よく似た産業構造を持っていたので、全世界での貿易交渉の場である世界貿易機関(WTO)での交渉では常に仲間として戦ってきたのが韓国である。また、当時は2002年のサッカー・ワールドカップの共同開催や韓流ブームの影響で両国はパートナーだとの意識が高まっていた。

    FTAの中味としては、日本側は、①先進工業国にふさわしく工業製品はほぼ完全な自由化を行う、②共に弱みを抱える農林水産業は適度な自由化にとどめる、③金融、建設、運輸などのサービス業の分野での自由化の促進とか、特許権や著作権などの知的所有権を守る仕組みの整備とか、企業間の公正な競争を確保する制度の充実といった先進国が熱心に取り組んでいる事項については、モデルになるような立派な水準で合意する、というようなことを目指した。両国の産業構造を考えれば、こうした内容で韓国も同意すると考えていた。そして、これが重要なことだが、こうしてまとまったFTAを東アジアでのFTAの標準にすべく両国が協力して取り組んでいくことが両国の利益になると固く信じられていた。当時の日本には、FTAを契機として、韓国への売込みを更に強化しようとの意識はあまりなかったと思う。経済的実利を求めるというよりは、地域経済統合のモデルになるようなFTAを作るという意識の方が強かった。そして、経済構造が似ている韓国は、理想的なパートナーだと見られていた。

    しかし、韓国では、日本は韓国に比べてはるかに大きな経済大国だとの認識が一般的であり、FTAができると経済的に日本に飲み込まれてしまうとの懸念すらあったように思う。当時日本では、石油製品、石油化学製品、布地・衣服などの軽工業品では韓国の方が有利だと見られていたが、韓国では、FTAができると、ほとんど全ての工業製品で日本製品に負けると考えられていたようだ。この損失を埋め合わせるため、日本から農産物の市場アクセスや産業技術移転の面でどれだけの譲歩がとれるかが極めて大きな課題だった。東アジア地域経済統合を進めていく上で何が必要かというような議論は韓国ではあまり重視されていなかったように思う。

    交渉スタイルについては、どうだったのか。日本側は、相互に関心事項を要求し合い、交渉を重ねていって妥協点を探るという積み上げ式の交渉を基本としていた。この方法では、まずは堅めの姿勢で始め、次に重要でない論点を少しずつ解決していき、最も重要な譲歩は交渉の最後の段階まで出さない。最後の最後のぎりぎりの段階で難しい問題をまとめて取引することが交渉だと考えられていた。確かにこれは非常に時間とエネルギーのかかる方法だが、国内のコンセンサス作りのプロセスを重視する日本の風土では、やむを得ない方法だった。

    ところが、韓国の交渉スタイルはより性急であり、まずは全体がどのようなレベルのものになるかを先に見通そうとした。強力な権限を持つ大統領制の下では、トップの決断が重要であり、長い時間をかけてコンセンサスを作っていく日本方式はなじまなかったのだろう。このため、日本側がまだ本格的な交渉は始まっていないと考えて堅い姿勢を維持していた段階で、韓国側は、日本から得られるものは少ないとの結論を出してしまった感がある。

    こうした基本的な違いは残念ながら、交渉再開に向けた実務協議を行っている現在でも残っている。特に韓国側は短期的には失うものの方が多いと考え、消極的な姿勢を示しており、そのため、中々交渉再開に至らないのである。一方、日本側では、交渉が始まらないことには、本格的な譲歩について国内の理解を得ることができない。まさに、手詰まりの状況である。では、どうすればまとまるのだろうか?それは、双方が歩み寄ることである。それ以外に方法はない。

    日本側は、韓国側の関心事項に対して前向きに考えていく姿勢を示すべきだと思う。EPA/FTAの中核的な分野である自由化交渉についてはもちろんのことであるが、単にそれだけではなく、韓国側が関心を示している分野、例えば、産業技術協力支援、相互的な投資促進等の幅広い分野において、両国間の協力を促進していく方法を模索する必要があるだろう。韓国側が日韓EPA/FTAから得られるものが少ないと考えている現状にあっては、日本側から様々なアイディアを出して、両国間の協議を活性化していくことが重要だろう。

    韓国側は、輸出や投資がどの程度増えるというような目先の利益だけではなく、日韓FTAがもたらすより幅広い効果やより中長期的な効果にもっと注目すべきだ。日韓EPA/FTAができれば、両国産業間でも協力の機運が高まり、具体的に言えば、日韓企業間の交流も増え、協力も進むだろう。両国の経済団体はFTAを契機として、こうした交流や協力の強化に前向きに取り組むはずだ。現在でも、大企業を中心に両国企業間の協力案件は大きく増えている。これが中小企業にまで広がっていく契機にもなるだろう。これまでの産業見本市で、韓国の中小企業の技術水準が上がってきていることが十分確認されている。両国政府が本気になって推進すれば、相当な成果が出るはずだ。交流が進めば、貿易や投資は必ず増える。それに、韓国企業の国際競争力も増大する。

    更に、今後東アジアの経済統合が進んでいく際に、両国が協力して取り組んでいくことの利益を過小評価すべきではない。両国の経済構造は類似しており、経済構造の異なる中国やASEAN諸国、豪州などとの関係で、規制緩和や知的所有権分野など協力して取り組んだ方が利益になることは決して少なくない。東アジア地域の経済的なアーキテクチャーの構築を目指すとき、両国は多くの点で利害を共有するだろう。日韓EPA/FTAはそのモデルを提供することができる。

    日韓EPA/FTAは両国間の協力の象徴的な存在になるだろう。地域統合のあり方の一つのモデルにもなるだろう。政治的側面も含めて付随的効果が決して小さくないことを強調しておきたい。  

(c) Embassy of Japan in Korea
在大韓民国日本国大使館